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NPOやソーシャルビジネスの創業・経営・マネジメント

弱みを人並みにするより、強みを徹底的に育てる。

何かしらの才能がある人は、どうしたってほかの弱い部分だってあるんじゃないだろうか。


例えば、どこかの関係者と飲みに行く。それも大人数で。僕はこういう場が正直苦手だ、というより嫌いだ。そういった大人数の中でどういうふうに振舞えばいいのか分からない。また、奢ってもらって当然のような雰囲気の中で、よく「いやいやいや、うちらも出しますよ」なんてことをレジの前で延々と繰り返している人たちも苦手だ。そういった既に結論が分かっている予定調和的なことを延々と繰り返すことに一体何の価値があるのだろうか。


で、大体そういう場で僕は何をすればいいのかがよく分からない。大体、ちょっと端のほうからぼーと見ていたりする。「あ、またやってる」なんてことを思いながら。でも、大体そういうふうな雰囲気を僕が醸し出すと、周りのスタッフや関係者はムカつくらしく、「お前ね、もうちょっと何か気を使えないの?」なんてことを言われる。でも、気を使うっていうのはそんなことなのだろうか。


もちろん、そういった対応に出ることにより、お互いに気持ちよく呑めるなら、それはそれでいいと思うのだ。僕がその何となくの違和感を我慢すればいいだけの話だし。ただ、周りの人は僕がそういうのを苦手と知りながらも、それも勉強しろと言われる。


でも、人が生来持って生まれた性質や才能なんてものは、そもそもそんなに変わらないのではないか。持って生まれた強みがあるのなら、それを徹底的に鍛えるべきだし、もしダメな部分があるのなら、それを補う努力をするよりも、それを補える人物をその人の横に配置してやればいい。そのための組織なわけなのだから。


それに人が自分の強いところを伸ばすのと、自分が弱い部分を人並みにするのでは、絶対に前者のほうが効率的だし、周りの人にとってもプラスなのではないか。


ただ、NPOに入る前にいた会社でも、そういったパーフェクト?もしくは全人格的な人物形成を求められた。でも、そういうのができる人ならいいんだろうけれど、でも凡な才能しか持ち合わせていない僕は、たぶん、「まあ、それなりにいろんなことができるけれど、別に大したことない人材」に将来的になるのではないか。僕は、それよりも「ほとんど何もできないけれど、これをやらせれば日本一」という人物を目指したい。


そう言ったとしても、NPOや会社でもそういうのは認めてくれないし、やっぱりいろんなことに対応するように求められる。そういった板ばさみ的な感じというのは、日本ならどこでもあるんだろうか。それとも海外でもそうなのだろうか。


もちろん、場当たり的にそういった対応策を身に付けるのが大人という存在であるのかもしれないけれど、ただ、僕はそういった大人というものにヒドク違和感を感じるのだ。できることなら、そんな処世術よりも、腕一本で何かを切り開いていける、そんな知識や技術力がほしいのだ。