Trans

NPOやソーシャルビジネスの創業・経営・マネジメント

知的障害者が合法的に犯罪が許されるか否かより、まず考えておくべきこと。

障害者ももちろん犯罪をすれば、罰せられるべきだとは思います。ただ、そういった行為になぜ及ぶのか?本当に、親や周りの教育者だけが悪いのか?継続的教育のコストは誰が払うべきなのか?課題は山積みだとは思います。ただ、障害者と直に付き合っている自分としては、このことだけは考慮しておいてほしいということがあります。


僕はNPOで働いている人間なので、いわゆる知的障害者という人たちとも付き合いがあります。(以前、知的障害者の施設でボランティアをやっていた経験もありますし)もちろん、知的障害者を含め、障害者には独自の事情があり、そのための継続的教育や支援は必要だと思います。そのための、コスト負担を誰がするのか、それにも課題はあるでしょう。


ただ、まず考えておいてほしいのは、障害者の現在置かれている生活環境です。それは、率直に言ってしまうと、完全な多様性のなさ、ということになります。


障害者は、その多くが高校進学時に、いわゆる養護学校に行きます。もちろん、教育的な配慮ということもありますし、身体に障害を持つ場合は学校の設備面のこともあるとは思います。


じゃあ、小中学校はどうなるのか、というと、神戸では「なかよし学級」なるものがあって、多くの障害者は大体その学級にいました。先生は転勤がない限り、学年が変わっても大体一緒です。クラスの生徒数は、僕がいた小学校では2人くらいだったと思います。


幼稚園などになると、障害者が行くことはあまりないでしょうし、近所の同年代の友だちと遊ぶこともなかなか難しいかもしれません。


で、大人になっても、特に重度の障害を持っていると、高校卒業後は、そのまま授産施設などの施設に入ったりします。軽度の障害ならば、職も可能なんですけれど、まだまだ企業の障害者雇用は進んでいません。


さて、ここまで見てると、一つ大きな問題があると思います。それは、障害者は生まれた瞬間から、いわゆる「福祉業界」にドップリ浸かっていまして、ほかの人たちとの交流がほとんどないことです。


幼稚園のときはそもそも幼稚園に行くことが難しいから、なかなか近所の友だちと遊ぶことができない。とすると、付き合いは家族や病院の先生や看護師さんたち。小中学校はなかよし学級で、先生も一緒なら、生徒も一緒。ほかの同学年の子どもと一緒のクラスになることも少ない。高校生にでもなれば、そもそも養護学校なので、周りは福祉の専門家的な先生や同じ障害者。その上、卒業すれば、そこもケアマネやヘルパーさんなど、福祉の専門家たち。この状況で、どうやって福祉業界以外の人たちと付き合えばいいというのでしょうか。


現在の日本の状況では、障害者は、隔離はされていないけれど、それに近い状況に置かれています。もちろん、学校にも行けるし、授産施設で働いてもいる。けれど、付き合う人間のタイプがずっと一緒なのです。もちろん、その人たちは障害に対する理解も関心もある。だから、ある程度寛容な付き合い方に慣れています。


けれど、普通人間というものは、いろんな自分と違う人たちと接して、そこで衝突したり、友好を結びながら、成長していくものです。その過程で、善悪の概念や行動というものも学んでいくと思います。けれど、障害者にはそんな環境がないのです。


僕の知り合いの障害者で、自分たちでショートステイの活動をやっている人がいます。毎月1回、ボランティアや障害者で寝食を共にし、遊びに行くという活動です。この活動の目的は、確かに障害者が自立して生活していくための練習ということにはなっています。しかし、その障害者の人が言うのは、「福祉業界以外の友人たちを普通に作りたいから」。でも、確かにこういった活動をやらないと、なかなか障害者が普通に友人を作るのは難しいのかもしれません。


そんなこんなで、僕がまず思うのは、障害者が普通にいろんな種類の人たちと接していける環境を作るようなこと。そうしないと、差別もなくならないし、そもそも障害者が自立して生活できるなんていうのはあり得ないと思うのです。