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特殊学級と普通学級

JANJANの記事で、こんなものを見掛けた。

太郎君の両親は、太郎君が普通学級で他の子どもたちと一緒に学ぶことを願っています。特殊学級という囲い込まれた環境よりも、せめて普通学級という普通に近い環境で成長していくことが障害の程度に関らず太郎君にとってよいことだし、障害児を持つ親や一部の専門家の間でも、それが通説になりつつあります。

この手の話は、いろんな書籍を見る限り、結構前から一向に解決していないように思う。両親は自分の障害を持つ子を普通学級に進学させたいと願い、学校はそれに対してあれやこれやと理由をつけて、拒否しようとする。


両親が子どもを普通学級に入れたいという理由は痛いほど理解できる。色んな障害を持つ人と僕は遊んだり、活動していたりするが、彼ら(特に重複障害を持つ人)の交友関係は驚くほど限られている。


親、作業所の職員、ヘルパーさんなど。全て身内や福祉業界で占められているんじゃないかと思うくらいのもの。そりゃあ、学校は特殊学級や養護学校、卒業後そのまま小規模作業所などのルートなら、交友関係は狭められてしまう。


両親は子どもがそんな狭い世界だけで生きていくのはどうなのだろう、という疑問を持ち、まずは学校だけでも健常者と同じように行けないかと思うわけだ。で、その結果、学校と両親の交渉が始まり、平行線が延々と続く。


ここで、単に「学校よ、そりゃあ教育の自由の侵害だろ!障害を持つ子どもも普通学級に入れなさいよ!」では、引用しているJANJANの記事と変わりないので、少し違った視点から書いておく。


それは、障害を持つ子どもを受け入れるクラスの子ども達の両親の疑問である。つまり、健常者の両親ということ。健常者の両親の反対もあるから、障害を持つ子どもが普通学級に入れないというケースは結構あるらしい。


その両親が思うのは「障害を持つ子どもがうちの子どものクラスに入って、授業が遅れたりしないか?」ということらしい。この意見自体が「自分の子どものことしか考えていない」と言うこともできるが、親が自分の子どものことを第一に考えること自体は間違っていないと思う。


ただ、僕が思うのは、障害を持つ子どもと色々と遊んだり、勉強したりすることによって、その子どもに差別や偏見などという視点を植え付けずに済むんじゃないかということ。要は、同じような属性を持つ人同士のみがずっと付き合っているから、自分と違う属性の人たちを受け入れられないということだと思う。普通学級という同じ属性が集まる子どもたちの中に、障害を持つ子どもという「ちょっと毛色の変わった」要素を入れてみることによって、また子どもも何か感じ取ってくれるのではないだろうか。


そういうのって、いわゆる「道徳」みたいな授業になり得るんじゃないだろうか。つまらない道徳の本やらを読むより、体感できる方がいいんじゃない。それに、障害を持つ子どもと一緒に遊ぶ、勉強したりするということは、健常者にとっても元々あるルールを変更したり、必要に応じて教えたり、手伝ったりといろいろなことに頭を使うこともでてくる。そういうのって、普通の授業では学べないけど、人生において必要なことではないだろうか。


障害を持つ子どもを普通学級に入れようとすると、必ず出てくる消極論=デメリットを最大化する考え方。たまには、そういうセンシティブな話にも、思いっきり積極論=メリットを最大化する考え方でもいいと思うのだけど。